2009/05/15

放蕩娘式!歌舞伎鑑賞法 


01;「快楽」を得るためには、まずは「謎」が必要、の法則


一般にですが、歌舞伎って、「あるていど知識がないとわからないもの」・・・って、思われていますよね? 入門書などを見ると、聞きなれないコトバや、呪文みたいなタイトルが、ズラ~~っと並んでいて、「歌舞伎を見るならこれくらい知っておかないと! そうじゃなきゃ見る資格ナシ!!!」と言われているような気がして、ちょっと「しゅん」とさせられたりして(笑)。



でも、本当にそうなのかなーって思うのです。私の経験からすると、あらかじめ歌舞伎についていろんな本を読んで勉強して「たいていのことだったら、理解できるわよ!」なパーフェクト状態で歌舞伎を見に行っちゃうと、「アレ・・・?」って思うくらいつまらない、ということがあるんですよ。

ちなみに、それが映画だったらどうでしょうか? その映画のストーリーや成り立ち、監督や役者のプロフィール、ロケ地情報、そもそも映画という芸術の仕組み、そんなことを頭にぎっしり詰め込んでから映画を見たら・・・、意外でも何でもなく、かなりつまらなくないでしょうか? 

もちろん、その映画がすばらしい作品だった場合、その映画のストーリーや裏情報、映画という芸術の仕組みなどを知っていることによって、同じ作品を、また別の違った視点から味わえたり、さらに抽象度を上げた地点から解釈できたりします。私も、デヴィッド・リンチの『ワイルド・アット・ハート』とか、ビリー・ワイルダーの『ねぇ!キスしてよ』とか、五社英雄の『鬼龍院花子の生涯』とか、「一体、何回見れば気が済むんだ?」ってくらい見てますから。



でも、普通だったらやっぱり、「何の前知識もなく見に行ったら相当おもしろかった!」 という興奮を味わいたいですよね? だって、どんなに再見に値するほどおもしろい映画でも、一番最初に見たときは、「何の前知識もなく見に行ったらすごくおもしろかった!」という、アクティヴでヴィヴィッドな体験だったわけですから。

というか、むしろ、そういう「何の前知識もなく見に行ったら相当おもしろかった!」という、とってもアクティヴでヴィヴィッドな体験だったからこそ、何度も見ることができるくらいその作品のとりこになってしまった、っていうのが真相ではないでしょうか?



人間関係にたとえてみると、もっとよくわかる気がします。たとえば、ある人に関して、この人はコレコレこういう人ですよ、という知識があらかじめ与えられていたとする。で、実際にその人に会ってみると、前知識どおりの人だった、と。・・・でもそれって、何の興奮もないですよね・・・。

それよりも、何の前知識もなくて「一体、この人は、どういう人なんだろう?」と思いつつも、いろいろ話してみたら、「相当おもしろい人だった!」っていうほうが、よっぽど楽しいし、嬉しい。もちろん、前知識を与えられていても、実際に会ってみたら「前知識はガセネタで、実際は全然違う人だった!」とか、「前知識とは違う、相当おもしろい部分を発見した!」ということもありますけど(笑)。



そんなわけなので、あまり「勉強しなければダメ」「知識がないとわからない」なんて思わないで、自分の感性に自信をもって、感性を全オープンにすれば、現代に生きる私たちにとっても歌舞伎は充分おもしろいのになぁ、と思うことしきりなのです。

知識なんて、後からいくらでも頭に入れられますから! というか、歌舞伎って、「なんでそうなるんだ?」「それってアリ?!」「それはどう考えてもヘンでしょ!」っていう「」に満ちているので、いずれは自分で確認したくなるものなんですよね、結局。で、「あ、こういう歌舞伎ルールがあるから、ああいう展開になるわけね~、なるほど!」と、「納得」する快感を味わえるわけです。

こういう「謎」と「納得」のセットって、「快楽」の基本、ですよね。

そうなのです。「快楽」を得るためには、まずは「謎」が必要、なのです。最初から「謎」をすっ飛ばして、「快楽」を得ようとしても、たいした「快楽」は得られません

そう、焦ると損。歌舞伎も同じなのです、人間関係や恋愛と(笑)。