2010/02/03

『菅原伝授手習鑑』「車引」その2


昨日は、『菅原伝授手習鑑』についてザッと述べただけで終わってしまいましたので(こちら)、続きです! 

2010年1月 歌舞伎座 夜の部


『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』 「車引(くるまびき)」 

で、「車引」。って、何だか、ヘンなタイトルですよね。私なんかは、未だに「ヘンなの」って思います。だって、車って引くもんじゃないし、とか、車を引くなんてタイトルとしてダサいし、とか。だけど、チラシとかものの本を見ると「そんなこと気にするヤツぁ野暮だよ」と言わんばかりに、何でもない顔してサラッと「車引」って書いてある。ふり仮名さえついてない(「くるまびき」、です笑)。この感じ、この阻害される感じ、隔絶されている感じ、容易に全てを分からせてくれない感じ、コレですよ~、コレがいいのですよね! 前にも書きました(こちら)けど、「謎」があってこその「快楽」、ですから! 最初からすべてが理解できちゃうことから、どんな快楽が得られようぞ?

なんてことを得意気に知人に話してたら、「そんなことよりも前にさ、この「車引」と『菅原伝授手習鑑』はイコールなわけ? そもそも、「車引」は『菅原伝授手習鑑』の何なのよ?」と、言われました。た、確かに。それ、重要。



「車引」とは、『菅原伝授手習鑑』という長いお芝居のうちの、ある一場面(たいてい、四幕目)につけられた名前です。

実は、現在の歌舞伎座などの公演では、ひとつのお芝居を最初から最後まで上演するのではなく、あるお芝居のなかの人気のある場面だけを抜粋して、それを3~4つまとめて上演する、という「見取り(みどり)」という上演方式をとっているのです。これは、できるだけ多くの客を呼ぶために江戸時代中頃から始まったシステムだそうですが、明治時代に入って松竹が歌舞伎役者や劇場を傘下におさめるにつれて習慣化していったのだとか(上村以和於・著『歌舞伎百年百話』参照)。ちなみに、国が運営している国立劇場で歌舞伎が上演される時は、ひとつのお芝居を最初から最後まで「通し」で上演することが多いです。



でも、この「見取り」方式って、歌舞伎をある程度見ている人にとっては「名場面だけたくさん見られてラッキー」って感じですけど、歌舞伎を知らない人にとってはかなり不親切ですよね。ある場面だけイキナリ見せられても、「この主人公はなんでこんな行動をとってるんだろ?」「この人とこの人はどんな関係だ?」「っていうか、このお芝居は一体、何の話?!」と、チンプンカンプンになる可能性、大。

と思ってたら、案の定、ネット上で、「歌舞伎の『車引』を観たのですが、何が何だかさっぱりわかりませんでした」、という素直な書き込みを発見。…そ、そうですよね…。おっしゃるとおりかと…。



でも。私などは、そのチンプンカンプンさがこそが面白い、と思うのです。「何だかよくわからないもの」が、目の前で、堂々と、平気な顔をして存在している! という、今の世にあるまじき、その不遜さ。高慢さ。その貴重さ。有り難さ。

今の時代って、「わかりやすいもの」が幅をきかせていますよね? 「何だかよくわからないもの」に混乱されることへの耐性がないためか、複雑なこともムリヤリ「わかりやすいもの」に仕立て上げられ、それが歓迎される。で、気がついたら本来のものとは全然別のものになってしまい、別のものとして受け取られてしまう。その結果、さらに別の混乱や誤解が起こる。

そう、たとえば、『菅原伝授手習鑑』を「わかりやすく」まとめたあらすじを読んで、私が「つまんなそう」と思ってしまったように(こちら参照)。



「何だかよくわからないもの」に出会った時は、まずはそのまま「何だかよくわからないもの」として受け入れるのが一番なのだな、と、最近つくづく思うのです。理解したり納得したりするまでの、その過程こそが「快楽」なのだから、最初から理解したり納得したりする必要はない。実は、「何だかよくわからなかった」という状態こそが、「快楽」のはじまり! そう考えると、歌舞伎ほど「快楽」が待ってくれているものもなかなかないものだと思います。ホントに(誉めてるのか?)。

そんなわけで、次回は、「車引」の「何だかよくわからなさ」を、どのように「何だかよくわからないもの」としてそのまま受け入れ、楽しむか? について書きたいと思います。「いや、ホントはとっても簡単でわかりやすいんですよー!」とは書きません(ていうか、私自身、そんなにわかってない)。というわけで、続く♪